弁護士
面会交流にあたって、「子どもの意見を尊重する」ことに反対します。(あいたいと言えない子ども達のために大人がするべきこと)
1 親子断絶防止法の議論の中で、「子ども意見を優先して決めるべきだ」という意見が出されることがあり、条文に明記しようという意見もあるようです。
私は、中学生以下の子どもの意見は取り上げてはならないという理由から、このような条文を盛り込むことには反対です。
そのような意見は、子どもに責任を押し付けるものであり、強い憤りを覚えます。子どもに負担をかけるべきではないと考えます。
2 子どもの意見を尊重するというと、ハーグ条約にも定められていますし、一見、子どもの人権を尊重するかのように見えるかもしれません。
しかし、面会交流について子どもに意見を聞くという場合は、子どもの自由な意思が表明されているとは言い難いのです。
そもそも、離婚だったり、別居だったりについて、子どもの意見は反映されたのでしょうか。親が、子どもの意見を無視して勝手に決めたのではないでしょうか。子どもが自由に意見を言えるのであれば、また家族みんなで暮らしたいと言える機会があるのでしょうか。「家族はバラバラだ。もう一方の親とは一緒に暮らすことができない。さあ、もう一方の親と会うかあわないか。意見を述べろ」といわれていること自体が、子どもがかわいそうだと私は思います。
子どもに対する虐待がある事案でも、子どもに意見を言わせるべきではないと考えています。親が、子どもの健全な成長を害するとして、大人として責任をもって実施の有無を決めるべきだと思います。
面会交流事件の実務経験からすると、子どもが真意を語らない場合、語っていない場合は、よくあることです。
調停などでも、子どもが「別居親に会いたくない」という手紙が提出されることがあります。確かに子どもの字で記載されているのですが、文面を見ると明らかに大人の事情が書かれていたり、言葉遣いが不自然に大人びていたり、不自然に幼児っぽくなっていたりします。また、その言葉は、子どもにはわからないはずだということも平気で記載されていたりします。親が書かせていることが多いわけです。
子どもに対して虐待があったと主張された事案で、こちらも緊張して面会交流を実施したところ、子どもが父親を呼びつけにして呼びかけ、「どうして今までいなかったんだ。どこでどうしてた。」と、父親の顔を見たとたん笑顔で走ってきたケースもありました。
これに対して、子どもが自発的に面会の拒否をしたとしても、真意で拒否しているわけではないことも多くあります。子どもが同居親に逆らえないのです。一つは、父親など別居親が自分の周囲から見えなくなったため、もう一人の母親もいなくなってしまうのではないかという不安があるようです。そのため、母親のいうことを過剰に聞いてしまうというようになります。
また、同居親が、悲しんでいたり、怒りを持っていれば、近くにいる自分の親ですから、その感情に共感してしまいます。自分が味方になるという気持ちがわいてくることは当たり前のことなのです。近くにいる親の感情に振り回され、自分が別居親との面会を拒否することによって別居親の感情を害するということまでなかなか気が回らないことが実情です。
ましてや、自分が別居親を懐かしがったり、心配したりして同居親からヒステリーを起こされたり、同居親が泣き出したりすれば、もう別居親のことを気にかけることはするまいと思うようになってしまいます。別居親の悪口を言ったり、別居親なんていらないという発言で同居親が喜べば、同居親を励まそうとして、そういうことを率先していってしまったりするものなのです。
別居親と会いたくないという言葉を真に受けないことも、大人の責任です。むしろ、別居親と会いたくないという言葉を発する子どもこそ、別居親との面会が必要な子どもだというべきなのです。
3 子どもが会いたくないという意見表明をしたことによって、面会交流が実施されないことは、子どもの心理に深刻な悪影響を生じさせます。
子どもは、別居親を独りぼっちにしたことに罪悪感を感じていることが多いです。それも自分の責任だと思うこともあります。ましてやただ会うことすら、自分の意見で実施されないということになれば、罪悪感や自責の念が高じてきてしまいます。これを軽減するために、子どもは自分自身の行為に言い訳をするわけです。それが、別居親はいかに悪い人間であり拒否は正当なんだと、自分に会えないのは別居親の自業自得だという言い訳です。自分が面会を拒否することによって被害者である同居親を守る義務があるという言い訳です。
そうすると、自分は被害者であり、絶対的な善である同居親の子どもだという意識が強くなります。しかしそれからしばらくして思春期頃になると、自分は加害者である絶対的悪である別居親の子どもでもあることに気が付きます。絶対的善の子と絶対的悪の子という意識は極めて有害です。通常は、両親の影響を乗り越えて、自分とは何かということを思春期後期に差し掛かるときに確立していきます。しかし、矛盾する親の子という意識は、自分というイメージがつくりにくくなり、自我の形成を困難にします。自分の異性関係にも暗い影を落とします。自己肯定感も低くなることは簡単に想像できるところです。
4 子どもが虐待されていた場合も、面会交流をした方が子どもの成長に有利に働くといわれています。もっとも、無条件に合わせることはマイナスになる危険があります。会わせ方の問題です。先ず、虐待親に対して、自分のどのような行為が子どもの心にどのような影響を与えるかを学習させます。その上で、禁止事項の打ち合わせを周到に行います。その内容を子どもに告げて、子どもの安心できる対応、距離だったり、同行者だったり、いろいろな条件を整えて子どもが安心してあえる環境を作ります。そうして、虐待親に謝罪をしてもらいます。子どもが過去の虐待を忘れることはありませんが、将来に向けて歩き出すことができるようになります。もちろん、同居親が、子どもが別居親と会うことを非難するだけでなく、態度で不愉快な様子を見せないことも子どもが安心して面会をするための有効な要素となります。
そもそも子どもは、自分がここで別居親と会わないことで、自分の健全な成長においてどのようなメリットがあり、どのようなデメリットがあるのか等ということを考える能力なんてあるわけがないのです。大人が責任をもって段取りをして会わせるということになります。即ち、どのように会わせるかという議論こそするべきです。それにもかかわらず、面会交流にあたって子どもの意見を尊重するということは、子どもに「自己責任」を負わせることにほかなりません。
5 「子どもが会いたくないと言っている。」という言葉は、面会交流調停において、必ずと言ってよいほど言われます。別居親と会わせない口実です。そういう主張がなされていても実際に面会すれば、子どもたちは、普段と同じように交流をしています。子ども意見は別居親の口実になっているということは、悪く言えば、別居親が自己の合わせたくないという感情を満足させるために、子どもという人格を利用していることになります。子どもはそれを知らされませんので、訂正する機会もありません。
子どもの意見を尊重するということが、いかに子どもに取って有害であるかお話してきました。面会交流だけは親が責任をもって実施するべきです。もっとも、現代の孤立した家族は無防備です。なかなか会わせる方法がなく、途方に暮れる親の姿も目に浮かびます。会わせろ、会わせないというよりも、どのようにして同居親の不安をなくして、安心して面会交流が実施されるかということこそ議論するべきです。
少なくとも、面会交流を定める法律で、条文をもって子どもの意見を聞くということ定めることがいかに愚かで残酷なことかお分かりいただけたと思います。それは面会交流を妨害するだけの効果しかありませんありません。誰が子どもの意見の真実性を判断するのでしょう。会わせない言い訳に使われるだけのことです。
面会交流の法案について意見を述べることには反対はしません。しかし、法案の議論をするのであれば、これまでの科学や実務を正確に反映してなされなければなりません。それらを無視して、感覚だけで法律が作られてしまうのではないかというとてつもない不安を覚えてなりません。
親子断絶防止法が提出された背景と問題点、補強していく方向性
親子断絶防止法が話題になっています。
これは、離婚後に、子どもが一緒に住んでいない方の親との交流を続けることで子どもの健全な成長を確保していこうとする法律です。
ただ、法律といっても、親に対して義務を定めたものではなく、どちらかというと国や自治体の責務を明らかにした基本法という意味あいの強い法律となっています。
http://nacwc.net/14-2016-10-10-06-05-20/8-2016-10-05-06-13-46.html
この法案が提出される背景として先ず、離婚時には、どちらか一方が親権者と定められ、通常は親権者と子どもが同居するのですが、子どもと別居する方の親が子どもと会えなくなってしまうということが社会問題化してきていることがあります。
司法統計を見ても、面会交流調停を申し立てた件数が平成12度では全国で2406件平成27年には12264件に伸びているというように、子どもに会えない親が激増しています。
いろいろな事情があるのですが、高度成長期前の離婚は、妻が夫の婚家から追放される形で行われることが多く、子どもは「家」のものだという思想から追い出した母親には会わせないというむごい傾向がありました。(今もなくなってはいません)
そのため、離婚が子どもとも永劫の別れになるという意識が潜在的に定着していったようです。
高度成長期以降は母親が子供を引き取ることが多く面会交流の要求がぼつぼつ出てきたようです。
もともと江戸幕府末期や明治初期の外国人の日本滞在記などでは日本男性の子煩悩ぶりが多く記載されています。(例えばモース「日本、その日その日」講談社学術文庫)
子どもを愛する気持ちは、最近のものではないようです。
子どもに会えないことによる親の心理は深刻です。
親として、人間として人格を全否定されたような感覚を受けるようで、それは、自分が存在することを許されないという強烈なメッセージを受けたような感覚だそうです。
自死をする事例もかなり高いです。
これまでフェイスブックで連絡を取っていた人たちがある日突然書き込みがなくなるんです。
とても怖いことです。
今回の親子断絶防止法案の提出の一つの問題の所在として、わが子に会えない父親、母親の魂の祈りがある。
法案提出に向けたエネルギーがあると言わざるを得ません。
しかし、最近は、法案推進側の人たちも学習を重ね、主張の内容が変わってきています。
これには棚瀬一代先生、青木聡先生等の先生方のご尽力があります。
一言で言えば「自分を子どもにあわせよ」という主張から「子どもを親にあわせろ」という主張への転換です。
子どもにとって、別居親からの愛情を感じることが離婚後の子どもに陥りやすい自己肯定感の低さ、自我機能の良好な発達特にゆがんだ男女関係に陥りにくいというような弊害を防止することに役に立つということが世界中の研究で明らかとなってきました。
優しい子どもさんほど離婚に伴うマイナスの影響が出てしまうようです。
このような研究が明らかになり、裏付けられてきたのは20世紀の末ころからで、それほど日がたってはいません。
それまでは、子どもの利益、健全な成長等と言う概念は離婚においてはあまりありませんでした。
最初にゴールドシュミット、アンナフロイト等と言う学者が面会交流については反対しないけれど高葛藤の母親に面会交流を強いることは葛藤を高めて、結局子どもの利益に反するという主張がなされました。
これに対して、離婚後の子どものマイナスの影響はあり、それを放置するとマイナスの影響は成人後も続くという研究がなされ、葛藤を抱えながらも面会交流をすることによって先ほどの負の影響が起きにくいという研究がされ、統計学的にも実証されるようになっていきました。
最近では、離婚そのものの負の影響ではなく、婚後も、親どうしが憎しみ合うことが子どもにとって悪い影響を与えるというように言われるようになっています。
これが、21世紀の20年弱の歩みなのです。
ようやく、このような研究、子どもの成長の視点が国家政策に反映されるというのが親子断絶防止法だと位置づけてよろしいと思っています。
それでは、問題点はどこにあるのかということですが、同居している子どものお母さん方の一番の不安は、離婚した元夫に会わなければならないのかというところにあります。
暴力があるケースもないケースも病的なまでに高葛藤となり、元夫と同じ空気を吸いたくないとか街で元夫と同じコートを着た男性を見ただけで息が止まり、脈拍が異常に上がるというまで生理的に嫌悪するということがあります。
ただ会いたくないのではなく、生理的に受け付けなくなっているという状態だと思います。
その相手と、日時場所を決めて受け渡しをしなくてはならないということであると、どうしたってやる気が起きないというかむしろ新たな不安に苦しむことになるということはよく理解できるところです。
実際、お母さん方と接していると本当は会わせたくないけれど、子どもをお父さんと併せることは仕方がないという方が殆どです。
でも、できないのです。
それなのに、会わせる義務があるようなことを言われるともう何も受け付けなくなるということはあるでしょう。
法案自体にはこのような義務を定めてはいないので実際の問題はないのですが、要綱とか概要には誤解を招く表現もあるかもしれません。
実際の面会交流を実現させるにあたっては、お母さん(同居親の多くは母)が安心して父親に子ども会わせる方法を構築してから面会交流を実現させます。
禁止事項を決めて、禁止が実現するための方法も決めて、安全確実に子どもが戻される方法も決めて誰かの協力を得て面会交流が実現します。
DVの訴えがあった事例などは私も面会交流に立ち会うこともあります。
それだけ苦労する価値のある感動を受けることができるのも面会交流です。
このような安心できる制度のサンプルを提示するということがこの法律実現の一番の近道ではないかと考えています。
これはしかるべき専門家たちが集団でサポートする必要があります。
まともにやれば費用は高額になります。
どうしても自治体の援助が必要だということになります。
もう一つの問題の所在は、じつは、家族が崩れていくことに国の関与があるのではないかという主張です。
このブログによくコメントをいただく方もそのような主張をしています。
どこまで影響があるかということで司法統計と内閣府の統計を調べた結果が下のグラフです。
面会審判申立件数はそのままの数字です。
同じグラフでわかるようにと、面会交流調停の申立件数は10分の1として配偶者暴力センターの相談件数を100分の1としてグラフ化しました。
そうしたら、面会交流調停と配偶者暴力相談センターの相談件数がぴったりとあうではないですか。
このグラフを作ってから、少し、心は揺らいでいます。
平成22年頃からは、配偶者暴力相談センターだけでなく民間のNPOなんかも相談に乗るようになったのではないかという気もしています。
そして、これらが、親子関係の崩壊の一因となっているのではないかとそんな考えが否定できなくなっています。
親子関係崩壊ということも、親子関係断絶防止法のワードの一つです。
この法案に積極的に反対している方は、この法案ができてしまうことは「家族や子どもをめぐる法律は、2000年代から、家族の多様性や個人を尊重し、家族内で暴力や虐待があった場合、個人を保護する方向で整備されてきた。配偶者暴力防止法や児童虐待防止法がそうだ。「父母と継続的な関係を持つことが子の最善の利益に資する」として、一方の親にだけ努力義務を課し、子の意見も聞かない法律ができれば、20年以上前に時計の針を戻すことになる。」と述べています。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12582308.html
これについては、反論もさせていただいています。
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-09-29-1
ここが、彼女らの主張や考えの根幹なようです。
「家族の多様性や個人の尊重」とは、家族は、父親、母親、子どもという固定観念を捨てて、父親のいない家庭を当たり前にしようということのようなそこまで過剰な主張をしていると考えることがどうやら実態からみて合理的なようです。
これまでの20年は、例えば上のグラフのような面会交流が激増するような事態を作るということだったようです。
暴力の有無にかかわらず警察や行政は、母親の子どもを連れた別居を支援しているからです。
子供にとってどちらが幸せかという科学的な調査研究の積み重ねは無視されています。
私が、彼女らの議論こそ20年前の議論に、そうですゴールドシュミットやアンナフロイトの議論に全く立ち返っていると言ったことはわかりやすいことだと思います。
20年たって、科学的には根拠がないとして葬られた学説が現在親子断絶防止法の反対意見としてなぞられるように再言されています。
「多様な家族」を作る目標こそが親子関係断絶防止法反対キャンペーンのモチベーションのような感覚も受けています。
しかし、それは国民のコンセンサスでもなければ国家等公的機関がやるべきことではありません。
親子断絶防止法は、根本的には、離婚後の家庭に対する働きかけだけではなく、現実の家族に対する向かい風をどのように克服していくかどのように男女が協力して温かい家庭を作っていくかというそして、国や自治体が押しつけがましくではなく、支持的支援を求められたら応えられるような体制を作るということまで視野に入れることが肝要なのだと思います。
離婚というのは、結果です。結果が出る前に早期に解決して早期に家族の不安や軋轢を取り除く工夫こそが国や自治体の政策として必要だと私は思います。
原則的面会交流否定論への考察 New!
面会交流に関する可児康則弁護士の論文に対する考察
出典:名古屋ブレイブハート法律事務所ホームページ 伊藤勇人弁護士
かつての同僚であった可児康則弁護士が面会交流について批判的な論文(注)が判例時報に公表された。
(注:論文)「面会交流に関する家裁事務の批判的考察」判例時報2299号13頁(2016.9.01) ※全国連絡会追記
彼は「こどもを中心の面会交流」でも立場性をもって論じているが、さて第一人者の彼の論文を拝見していくと、離婚=DVというドグマが激しすぎるような印象を受ける。
この点、最近は、DVでもCCV、SCV、SIV、VRに分類して危険性評価をするのが一般的であり、別居に際してのトラブルの多くがSCVであり、これをDVとするのは「レッテル貼り」の印象をぬぐえない。
現実に、名古屋地方裁判所保全部の運用は厳しく、現実には、危険度が最も高いCCV以外では発令されていないのではないかと思われるくらいである。(この点は、各庁の裁量が極めて大きい)
しかしながら、立場性もあるだろうが、互換性のある立場からいえば、今回の可児論文があまりできがよくないように思われる。
第1 軽視されるこどもの意思
軽視されるこどもの意思という項目が立っている。たしかに、私も家事実務の中で、こどもの人権共有主体性自体が否定しているのではないか、と思ったこともあり、人間の尊厳をどう考えているのだろう、と考えたことがあった。それは具体的には、大変男性親に懐いている男の子だったのだが、その子がどれだけ声を上げても裁判所によって封殺されること自体に違法性を感じることがあった。
しかしながら、可児弁護士は、ラジカルにいえば「洗脳」の正当化に近い。一般的には、監護親が非監護親に不安感を感じていると、その不安をこどもが敏感に感じ取り監護親の望む言動をする循環機序にあるとされている。最近では、名古屋高裁が一般論で説示するようになり、もはや経験則といっても過言ではないと思われる。この点、可児弁護士は「こどもの意思を無視した面会交流を決めても実現には困難さを伴う。」などと指摘する。
しかし、問題なのはこどもの真意なのだと思う。私の母親はいつも強きで人の悪口をいうのが大好きな人だったが常に同調を求められていた経験がある。末っ子で家事もできない少年としては、母親のいうことにうなづくしかないだろうと思う。したがって、こどもの表面的な言動にはとらわれず、両親の紛争の経緯等から慎重に真意を見極める必要があると考えられる。ただ、調査官実務における意思の分析は私も真に疑問だと思う。調査官のある研究論文では面会交流というのは監護親と非監護親の感情の調整といった程度のレヴェルの叙述がみられるものも散見される。
私は、これまで黙殺されてきたこどもの「声なき声」が拾われるには、ある程度真意を見極めなければならないという一般論には賛成せざるを得ないと思う。可児弁護士は面会交流ありきの方向性での調査結果しか出ない、と断じるが、大よそ2年ほど前の名古屋家裁の実務を論難するものとみられる。現在は心情面では父親とは会いたくないといった記述がされることもあり、分析・評価といえるほどのものはないように思われる。他方で、数年前に見られたのは、「血縁上のルーツを知るのはこどもの福祉に資するから面会交流を認めないのは子の福祉に反する」という血縁主義的な気持ち悪い報告書も何件か読み、その調査官が血統主義、優性主義者であるということはよくわかったが、最近のいわゆるDNA判決以降、自然血縁関係を重視した大阪家裁決定が出されるなどしており、こどもの精神状態を不安定にさせないかどうかという理論的視座から面会交流の実施の可否を判断するのが相当のように思われる。したがって、可児弁護士がいうように面会交流に向けて、結論ありきであれば、それはこどもの精神的安定を害する場合もあればそれは不当としかいいようがないように思われる。
可児弁護士は、司法関係者は幼年心理につき素人同然というが、たしかに調査官は数年前は養育費の調査を担当していたのであり、数年経過したら「こどもの専門家」などというのは笑止というしかない。そして、こどもが面会を拒絶しているという調査報告書が出されつつも調停委員会のあっ旋で面会にこぎつけて、「面会できてよかった」と感想を漏らすこどももいる。したがって、調査官報告書の分析・評価というのは「その程度のもの」とみなければならないように思われる。
可児は、臨床心理士など外部の機関の利用を推奨するが、私は、こどもの意向や心情調査については、弁護士を選任して、1カ月程度数回の面談を重ねるということがいいように思う。たしかに、監護親には負担だろうが非監護親からすれば15分程度の司法面談で「パパは嫌い。ママを殴るから」と覚えてきたセリフを言われて、面会交流を却下されたり、「ママは嫌い。パパと僕より不倫相手の方が好きなんだ」とやはりお決まりのセリフが登場することにはあきれ返る。そして、調査官自体が人生経験の乏しい若い少年のようなケースもあり、当事者間の納得が得られなければ、父母間の緊張関係の低下や建設的な面会交流の策定に向かわないように思われる。
可児弁護士はこどもが示した意思の安易な分析はよくなくないというが、現実的にそのとおりだとすれば、もっとじっくりと話しを聴くという意味で、こどもの代理人制度の導入、ひいては、こどもの手続代理人制度の活用範囲を拡大するべきである。現実に間違っていた例を目の前にして、可児のいうとおり、こどもの意思の分析、評価の仕方には問題があるように思われる。
可児弁護士の論旨は、結局、こどもの調査に多方面の外部者を入れるべきだ、という論点は正しい道筋のように思われる。
しかしながら、それ以降のDVに関する叙述に関するものは読むに堪えない、といったレヴェルのものだと思う。
繰り返すとおり、DVには、危険性のレベルがある。早期に警察も介入が必要であるのは、CCVのみというべきであり、SCVなど強引な子連れ別居の際の小競り合いをもって「DV」「DV」と騒ぎ続けるのは不当な「レッテル貼り」のように思われる。そして、保護命令が出た後の調停でも監護親から「生理的に嫌」など、主として、又は、専ら個人的な感情の重視が調停委員会に伝えられることもある。そうだとすれば、危険性が高ければ別論だと思うが、危険性に比例した対応を面会交流で行うというのが警察比例の原則からいっても理に適っていると思われる。そういう意味で可児が批判する「家裁はDV被害者支援の機関ではない」との指摘は正鵠を射るものであるのであって、危険性が低いDVについて警察比例の原則からいっても面会交流が相当な場合にまでネガティブと言い続けるのは、フェミニストの党派的主張と批判されても真にやむを得ないだろう。その辺りの繊細なバランシングが、可児の論文において、段階的かつ分析的に行われていないのは、彼の論文の骨子が十分成り立たないことを示すものである。
また、可児弁護士は、どちらかといえば、片親でもいいじゃないか的発想が強いと思うが、V6の岡田もまた離婚家庭で育ち理想の父親像を考えながら過ごすのが趣味とかって新聞のコラムで紹介されていたことがあった。可児弁護士は、片親でも健全に発達しない実証はない、というが、他方では、父母両方から愛着が得られることこそ、こどもの心理に安定感を与えて、愛情豊かなこども、そして大人に育つという考え方の方が経験則には合致している。このような理論的視座から欧米では共同親権がとられているのである。欧米で一般的な考え方を「実証的根拠がない」という程度の理由では否定できないと私は考える。かつて少年付添事件で、警察の一件記録を拝見すると「欠損家庭」と書かれていたものだ。また、ある映画では父親がいないと同性愛者になるそうだ、というセリフもある。そして、これは本来的には実証が可能なことであるが、プライバシーが強いことから実証はされないだけで、例えばLGBTの人などでは片親の人が多いのはある程度は事実であるといわれている(もちろん偏見的な意味合いはない。私は平等主義者であり、米国連邦最高裁のケネディ法廷意見に賛成している。)。
それだけに、可児の主張は、「面会ありき」といわれるが、それはビューポイントを変えるとこどもを人質にとって財産分与や慰謝料の要求の駆け引きに用いていると、大きな見方では可能になるということも、可児の主張は批判に耐えられないであろう。また、夫婦間のDVがこどもに必ずしも向かうとの的確な証拠はないように思われる。
面前DVは児童虐待防止法に違反するものであるが、家裁のこれに対する消極姿勢には多少、私も疑問を感じるときがある。例えば、立命館大学の二宮周平の家族法では、こうしたことをもって面会交流拒否事由になると論じられている。ただ、面前DVといっても、こどもを閉じ込めてわざわざDVをするケースも少ないだろうから、やはり危険性の判断との警察比例の原則で決するべきで、可児の議論は極端かつ一方的に採用の限りではない。
可児の分析が間違っているのは、一般的に監護親の方は、DVを主張し、非監護親の方は、児童虐待を主張するという点である。つまり児童相談所への虐待通告は非監護親から行われることも少なくないということである。
なお、別居中の面会交流と異なり、離婚後は事情の変更があったとして、面会交流は量的拡大を目指すべきものと考えられる。今までは、離婚したら縁切りということが多いと思うが、可児の主張には、「子の最善の利益」という最も根本的な視点が欠落しているのである。DVについての事実認定は困難を伴うから、愁訴を前提に反省していないとか、どうして暴力を振るわないといえようか、という主張には論理に飛躍がある。そもそも、離婚後は親権者が指定されるから、こどもの連れ去りは刑法上の問題が生じる。面会交流といっても、不代替的作為義務であるから、こどもがいきたくないといってしまわれたらそれでおしまいであることから、面会交流親は楽しい面会交流を心掛ける必要がある。特にこどものペースに合わせてあげることが必要である。
また、離婚後は暴力を振るえば、即逮捕という世界である。現実的な暴力が生じるとするならば、刑事的な制裁を与えるのが理に適っており、もはや家事法の領域を超える末期的病理現象を標準として議論をしている点でまた失当と云わざるを得ない。
なお、可児が縷々述べるところをみると、かえって、その監護親は、こどもに不安を伝染させており、非監護親の悪性を吹き込んだり、悪いイメージを与えたりしているのであるから親権者として不適格ではないか、という議論が正面から会っても良いのではないか。どうも可児が縷々述べるところをみると、面会交流には不安が付きまとうというテーゼがあるように思われる。それはそのとおりであることから、それを取り戻すための調整活動をすることも弁護士の仕事のように思われる。また、可児のこどもの行動観察は、何かリーズナブルなこどもがいる、というが、こどもはそんなに合理的には行動しない。いうこともころころと変わるし、それに寄りそってあげるだけの監護能力が必要であるように思われる。
良い面会交流と悪い面会交流があるのは事実である。ただ、私見は、共同親権に近くなるよう面会交流制度の定義づけ比較衡量が行われるべきではないかと思う。一般的に「良い面会交流」は、大人からいえばサンタさんのような面会交流になってしまう。もちろん感情的なつながりを深める場でもあるが、旅行やおいしいものを食べる場になってしまうのではないかと思う。そもそも、それが面会交流なのかということもある。例えば男の子は父親は貴重なロールモデルであって、全てがDV男ではない。だから、こどもの精神において父親の下に移転したいとか、会いたいと願うこどももたくさんいる。その反対もしかりと思われる。ただ、面会交流というのは、家裁の基本的な考え方は、アタッチメントの形成にあるものの、物や食べ物、おもちゃといったものを使わないで、それを形成できる親はあまり多くはない。だからこどもにとってアタッチメントの形成の機会ではあるものの、楽しくなく正月とお盆に会えればいいよ、となってしまうこともあるかもしれない。
可児弁護士は、縷々面会交流について批判し、すべての離婚事件を「DV」と断じて、親子関係を断絶させるのが相当であるが、そのような考え方は、少数意見であり、本来的にはこどもをもうけた以上、「生理的に嫌」などの理由ではなく、リーズナブルに話し合っていく建設的なものとして定義づけをしていくにはどうしたら良いのか、という理論的展開が求められるといえよう。なお、今般、名古屋高裁金沢支部は引渡しの際に、面会交流親と会わなければならないことは通常甘受すべき負担と断じている。その程度の負担も甘受できないのであれば、フレンドリーペアレントルールにも反し、親権者として相応しくないというところに戻ってくるのではないだろうか。なお、面会交流親にも、こどもと会えず心身を害している方もいるわけであって、互換性をもって論じなければ、無意味のように思われる。
可児弁護士がいうとおり、監護親や非監護親のいずれからも家裁が社会から信頼を失っていることはそのとおりであり、それは保護命令の管轄が地裁にあることが物語る。
裁判所によって、傷つけられたこどもたちの発達の程度に応じて、その愛着が得られるような形となるよう知恵を絞るべきで、欧米のバラは曲がったら一生曲がったままだ、という否定的な論旨は、我が国の健全な社会通念には到底合わない。
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