両親の愛情が子どもの健全な成長に不可欠であるとの認識のもと、子どもの連れ去り別居、その後の引き離しによる親子の断絶を防止し、子の最善の利益が実現される法制度の構築を目指します

令和3年3月23日、土井法律事務所ブログ

離婚後の共同親権制度は、子ども独自の人格を認めて子どもを親の付属物と見ない日本に変えるための制度。単独親権制度が「DV」の防波堤になるとか面会交流時の事件があるからだめだという主張は物言わない子どもの権利を切り捨てる主張ではないのか。

共同親権反対派の人たちの実質的反対理由として
「離婚後の単独親権制度がDV被害者の防波堤になっている、それにも関わらず共同親権にしたなら防波堤が無くなりDVが継続する。」という論理に触れました。

これが単独親権制度から共同親権制度に変更するか否かの立法論、政策論を議論しているときの理由とはならないのではないかということを検討していきます。

1 防波堤とは何か
2 具体化されず、立証されない「DV」
3 面会交流時の事件が理由となるか
4 封建的な排除を擁護しているに過ぎないこと
5 子ども利益の視点の欠落(子どもは親の所有物ではない)
6 問題の所在をどのように子どもたちのために活かすか。

1 防波堤とは何か

先ず、離婚後の単独親権制度がどのように「防波堤」になっているのか見てみましょう。

今の日本の離婚後の単独親権制度では別居親は親権者ではないという理由で子どもの成長に関わるチャンスが著しく無くなります。

極端な話、子どもたちがどこにいるのか分からないケースもあり例えば大きな地震があっても安否確認すらできません。

居場所がわかって、母親の問題で児相に子どもが保護されても親権者ではないという理由で児童相談所からあなとは何も話ができないと冷たくあしらわれた別居親もいます。

学校や幼稚園の行事も親権者の同意を得て参加してくださいと言われ子どもの晴れ姿を見れないことも多いです。

我が子の卒業式や入学式、運動会や学芸会に参加することもできない事例は多いです。

手紙を出しただけで、警察署長からストーカー警告を受けた別居親もいます。

このように単独親権制度は同居親がやろうとすれば、別居親とかかわりを無くして生活することが
表面的にはできるようです。

そのためには、親権を獲得して離婚を成立させる必要があります。

この単独親権というゴールがあるからこそ子どもを連れ去って別居するという行為が後を絶たないわけです。

裁判所は、子どもが今いる場所から移動させることを一般に嫌います。
元々家族で住んでいた場所から実家に異動させていても裁判時にその実家から元居た家に異動させることは嫌うのです。
それは裁判の構造からも説明ができることです。

離婚を拒否して子どもの同居だけを求める場合、子どもを元の家に戻せということを求めて訴えるわけです。そうすると、今いる場所では子どもにとって不利益であり家に戻すことが有益だということを証明しなければならないというのが裁判実務です。
しかし、この不利益を裁判官に賛成してもらうことは通常難しく積極的な同居親の虐待でもない限り元の家に戻すことが子どもの利益だと認めてもらうことは困難です。

元の家から通っていた学校の同級生や先生、習い事を一緒にやっていたお友達、なじんだ自分の家や部屋、もちろんもう一人の子どもの親、それら一切を奪って新しい環境に連れ去っても裁判所は虐待だとは認定しません。

例外的に連れ去りの違法を認めて元の家に戻すことを命じた裁判例は大抵は父親が連れ去った場合です。

私は、裁判所には
「子どもは母親が育てるもの」というジェンダーバイアスがあると感じています。

さて、妻が夫を嫌いになって逃げだしても終わりのない逃亡は精神的に堪えることがきつくなります。
離婚後の単独親権というゴールがあるからこそ子の連れ去りをするというケースは多いはずです。

単独親権はDVの防波堤だと言っている以上単独親権制度にこのような効果があるから言っているわけです。

このような一方の親を子どもから遮断するという効果が子どもの健全な成長に害になるというのであればやはり単独親権制度は廃止し共同親権制度にするという立法の必要性があるということになるわけです。

立法の必要性は立場の違いに過ぎないのに論理的に立法の必要性が無いというのは単なるごまかしの論理です。

立場の違いというのは、子どもの健全な成長に価値をおくのか、母親の感情を優先させるのかという立場の違いです。

自分が実際に単独親権制度のうまみを利用して仕事をしているのに統計的データがないということを理由に証明できてきないという主張もフェアな議論ではありません。

まとめると、
「単独親権がDVからの防波堤」というのは、元配偶者と交渉をしない、関りを持たなくて済むという効果が単独親権制度にあるということを前提とした主張だということになるでしょう。

もちろんこのかかわりを持たないということには例外があり別居親は婚姻費用や養育費、さらには困窮した場合の扶養義務というお金を支払うという関係だけは続いていきます。

しかし、子どもとの人間的かかわりを一切遮断しておいて金だけ払えというのは人倫に反することだと連れ去られて、孤立し、精神的な問題を起こしている人たちを見て私は確信するようになっています。

2 具体化されず、立証されない「DV」

共同親権論者の特徴としてDVという言葉を多用するのですが、DVとは何か、当事者の何がDVなのかについてあまり具体的な話はありません。

さらに現在ではいわゆるDV法の「DV」の概念は拡大しようとしています。

特に問題なのは夫婦間の性的DVです。
合意があったかなかったかというだけで警察介入を合法化しかねない危険があります。

しかし、実際の裁判例での性的DVの主張でその行為のどこがDVなのかという主張がなされない場合もあります。
そもそも、言葉による合意がある場合の方が少ないような気もしますがこればっかりはご家庭の問題でありよくわかりません。

よくわからないことにもかかわらず、一方の要請で警察が家に入ってくるという事態を作られようとしています。

警察に呼び出されるという解決方法しか考えられないというところに発想の貧困さ、人間についての浅はかな理解を感じます。

さて、共同親権論者反対論者たちの中には、DVは家庭の中のことなので証明することが難しい、だから弱い証明力でもDVを認めなければならないという主張をする人もいます。

しかし、それでは、本当はDVがないにもかかわらず反証することもできないままDVが認められ、多額の慰謝料の支払いが命じられ子どもをとられ、会うことすら許されなくなるということが起きるわけです。

この冤罪とも言うべき人権侵害についてはあまり気にしていないようです。

そもそも裁判ではない解決という視点が私はとても重要だと思っています。
現実の人間の身丈に合わせた制度こそ求める必要があると思います。(後述する家事紛争調停センター)

現実は、訳の分からない「DV」という言葉が独り歩きをしていてDVだとさえ主張すれば離婚はもちろん、離婚の前後に関わらず子どもに会えなくなってしまうという危険が極めて高い状態です。

どうもDVと聞くと、自分がこれまで聞いてきた中で最悪のDVを想定してしまう(たいていはアメリカの文献)、別のDV案件の家庭の様子が
今目の前にしている人たちの家庭でも繰り広げられているはずだという先入観を持ってしまうようです。

DV概念が安易に拡張していくならなおさらそれを要件として下される厳しい効果に見合った効果が本当に必要なのか、本当にその厳しい命令は妥当か真摯に考えていかなければならないはずです。

DVというわけのわからない用語はそのような思考をする力を奪う効果があると私は思います。

3 面会交流時の事件が理由となるか

離婚後の共同親権反対論者は面会交流時に、子どもが別居親から命を奪われたという事件を良く引き合いに出して面会交流は危険だから、面会交流は原則禁止にしろ共同親権に反対だということを主張することがあります。

これは、現状の議論をよく理解していないと言わざるを得ません。
離婚後共同親権は制度論、立法論です。
個別事情を無視するわけにはいきませんが、立法理由の有無を検討した上で個別事情や問題の所在をどのように解決するかという議論をしなくてはなりません。

家族解体論者は、父親の影を一切消去しようということですから本来具体的な事件はあまり関係がないはずです。
しかし、それをあけすけに言ってしまうと多くの指示が受けられない。
このため、分かりやすく感情に訴えるという手法をとるわけです。

悲惨な事例を紹介すればどうしても人間は、弱者、犠牲者に同情をしてしまうわけです。
加えて殺されたとか、子どもも殺されたということになるとわかりやすく共感してしまいます。
取り返しのつかないことが起きてしまうとそれを埋め合わせる方法を考えたくなるもので怒りをどこかに向けたくなる人間とはそういう生き物であり、それ自体は必要なことです。

しかし、そういう人間の心理を悪用することは許されません。

つまり、面会交流の際に事件が起きたからと言って政策論として面会交流を原則禁止にする理由にならないし政策論として共同親権としない理由にはならないのです。

こういうことで政策が決まってしまったら何も政策はできないことになります。

例えば、離婚後に母親が再婚し、あるいは男性と交際し、再婚相手や交際相手の男によって子どもが虐待され、殺されたことを理由に母親の再婚や交際を認めないという政策判断をして良いのかということを一つを考えてもわかることだと思います。

継父の大部分が立派な父親ですがこれはこの人たちを侮辱することですし同じように離婚後の面会交流を禁じることは離婚後の別居親を侮辱する差別だと思います。

統計的に見て子どもを殺す大人の筆頭は母親です。
だからと言って子どもが生まれたら母親から引き離すという法律ができるはずもありません。

私は、面会交流時や調停時に事件が起きるのは離婚や別居の仕方が稚拙であり相手を侮辱した形で行われているために相手の判断力が弱くなったケース人格が変貌してしまったケースの方が多いという印象を持っています。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2017-05-11

4 封建的な排除を擁護しているに過ぎないこと 別居母の苦悩が切り捨てられる

単独親権制度は封建制度と近代が交錯した時代の産物でしょう。
一番の弊害が見られたのは明治時代から昭和中期にかけてだと思いますがここは今日は割愛します。

要するに、子どもは父のものでも母のものでもなく「家」のものだった。
「家」から追い出される(通常母)親は、「家」のものである子どもをおいて追放されたわけです。

戦後「家」制度が無くなったにもかかわらず離婚が未来永劫の別れということを前提に主として法定代理権を念頭にどちらか一方の親に全権限を与える規定を作ってしまった。

単独親権制度は封建的イデオロギーの残存物だと思います。

現代においても、このことに苦しむ母親たちはたくさんいます。

何人目かの出産のあと、精神的に不安定になることは多かれ少なかれ誰でもあることです。

元々、姑が嫁を気に入らなかったという事情に加えて夫が自分の母親の言いなりになる傾向がある場合、出産後の母親の不安定な精神状態、内分泌系の疾患からくる不安定な精神状態、その他を理由に、夫の母親や夫の姉妹から集中攻撃を受けて
精神病だ、人格障害だ、発達障害だと責め立てられて精神科の治療を受けさせたり、入院させたりして、家に入れなくする。
それは母親も怖いですからなかなか入れない。

子どもが小さいケースでは、他県の親戚に隠したケースもありました。
そうやって母親を排除してあることないことと針小棒大のエピソードで離婚にもっていく。

あとは同じです。
親権がないということで学校からも拒否されて追放される。

DVの防波堤として使われている単独親権面会交流拒否のテクニックは母親の排除にも応用されています。

一番苦しんでいるのはわけのわからない理由で
自分がおなかを痛めた子どもを手放さなければならない母親だと私は繰り返し訴えてきました。

共同親権制度反対論者は子どもに会えない父親はDVがあるとでもいうような乱暴な議論をすることがありますが子どもに会えない母親のことはどう考えているのでしょうか。

姑が会わせたくないというならばそれなりの原因が母親にあったからだとでもいうのでしょうか。

これでは、宗教的な因果応報論です。

5 子どもの利益の支点の欠落

共同親権反対論者の封建的な思考はまだあります。
一番は子ども利益の視点が欠落していることです。

面会交流調停ではこれが顕著に表れてしまいます。
面会交流の実施を拒否したり時間や場所を極めて限定的に主張するのですが、その根拠がないのです。

もっともそれなりに主張するのですがすべて理由にならないということがはっきりしていくわけです。

結局は
「会わせたくない」
「嫌だ」
ということに終始しながら粘るわけです。
これをなだめて、励ましていくのが面会交流調停
みたいなところがあります。

子ども利益は全く考慮していません。
自分の感情だけなのです。

これに対して、子どもが親に会うことは当たり前ということから一歩進める統計研究や実証研究が20世紀から21世紀にかけて行われ、現在では、子どもが離婚後ももう一方の親と会うことが
子どもの健全な成長のために必要だという見解が
科学的に確立されています。

共同親権反対論者は、この論点にはまともに触れません。
前に批判したのですが、日弁連の委員会名でウォーラースタイン批判がなされたことがあったのですがアメリカの家族制度の知識もなく、単純に日本に引き直して鬼の首を取ったように面会交流の弊害が書いてあると述べていたとても情けないものでした。

でも、論点としたことは評価できるところです。

今は共同親権反対の人たちは子どもの利益についてははほとんど触れていません。
おそらく勉強したのでしょう。
勉強して自分の誤りに気が付いたものだと思われます。

このため、面会交流で子どもが殺されたという事件を何度も持ち出すしかないということはよく理解できます。

結局子どもの利益を考慮しないということは子どもの独立した人格や利益を認めていないのです。
母親が幸せならば子どもも幸せだというのは全くの俗説であり、子どもの独立した人格を認めない
非科学的な主張です。

要するに子どもは、母親の付属物だと思っているようです。
まるっきり封建的な思考だと私は思います。

本当は子どもの権利委員会が子どもの利益のために面会交流の推進を主張するべきだと思うのですがあまり、ハーグ条約とかは関心がないのでしょうかね。

共同親権反対論者の文章を読むことがあります。
「子どもの権利から」という表題がある場合なのですが、実際読んでみると、子どもの権利の視点が現れる前に文章が終わってしまっているという印象が残ることがあります。

あったとしても、家事実務では過去のものとなったゴールドシュタインという人の理論の焼き直しくらいです。

共同親権制度はあくまでも子どものための制度です。
この観点から立法化の必要は高いと思います。
制度の創設に関する争点の場合は子どもの利益から出発しなくてはならないと思います。

逆に子どもの利益から共同親権を主張すればまともに反対することができる人はいないのです。
ここを全面に押し出さない手はありません。

ここまできたら原理原則論、正面突破を戦略とするべきです。
(そういう意味からは、この記事の構成は間違っていますね。
 怒りが強すぎるとこうなるという見本のような失態です。)

6 問題の所在をどのように子どもたちのために活かすか。

それでも、面会交流や子どもの受け渡し、相談事のたびに父と母がいがみ合っていたら子どもにとって悪い影響を与えてしまうことはその通りです。

暴力や事件は絶対にあってはならないことです。

原則論としては子どもの健全な成長のために
面会や共同親権制度とする。
しかし例外的な危険がある場合はそれを除去していくという流れが政策論のノーマルな流れです。

危険を低下させていくという方法論は問題の所在となることに異論はありません。

この点は家族解体主義者も前向きなことをおっしゃる方もいて共同養育や面会交流の子どもの利益になる実施についての基盤整備をすることを主張されているところです。
それ自体には大賛成です。

しかしそれには予算が必要です。
私は家事調整センターの企画書を作ったことがあります。
http://www.doihouritu.com/family.html

現在は面会場所一つとっても、
探すのに苦労します。
都市部は結構面会に適した場所があるのですが、農村部はなかなかない。

採算ベースでの運用が難しいということもあるので自治体が面会交流場所や母と父の意見調整の場所を設置してもらわないと子の福祉を実現することがなかなか難しい状態です。

面会交流支援事業の半ば公的なものは費用が掛かりすぎて養育費を払った上に面会謝礼費用を負担することができる人は限られてしまうようです。

子どもの健全な成長のための投資だと思ってひと時が楽しくなるような場所を各自治体で是非作ってほしいと思います。

平成25年に私は新聞にこのような投稿をしましたが記者の取材に自治体ではその必要性を認識していなかったようです。

これも家事調整センターの記事のあるページの下の方に投稿記事を載せておきました。

面会交流場所は小さい子向けのプレイルームや
豊富な書籍や安全な実験設備などの教育施設、親子がのんびり過ごせるサンルーム等と宿泊施設があるとよいですよね。

公共交通機関や高速料金などの割引があるとなおよいと思います。

こういう予算措置は法律という根拠に基づいて執行しますから共同親権制度に民法を変えるだけでなく共同養育促進法も合わせて作って予算措置を講じる必要があるのだと思います。

こうやって考えると共同親権を制度化することから離婚後の子どもの福祉が充実していくという可能性が感じられてきますね。

日本の明るい未来、前向きな発想は子どもの健全な成長からだと思います。

そのために家族を強化するということです。
離婚しても、母と父と子という家族です。
このために協力して今より少しでも居心地の良い人間関係を作るそれが努力する方向だと私は思います。

おのずと離婚の在り方にも影響が出てくると思います。

そんなものは成り立たない一方の親は切り捨てて、金だけ出させるというのが共同親権反対論者なのだとそういうことになるのではないでしょうか。

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